毘沙門天の力で命拾いした!
純銀製24金鍍金「勝運毘沙門天」
祈願済
総高37mm
危機一髪!
毘沙門天で有名なのは上杉謙信ですが、ライバル武田信玄が毘沙門天の加護で絶体絶命の危機を脱したことはご存じでしょうか?
永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いのとき、信玄は謙信の裏をかくべく「啄木鳥戦法」を仕掛けました。兵を二手に分けて、妻女山に布陣した上杉軍を別動隊に奇襲させて、不意をつかれて山から下りてきたところを待ち構えていた信玄の本隊が皆殺しにする作戦です。伝説の軍師・山本勘助が練り上げた計略であり、信玄は自信をもって川中島に布陣します。
ところが朝を迎えて深い霧が晴れると、ありえないことが起きていました。いるはずのない謙信の大軍が目の前に現れたのです。裏をかかれたのは信玄でした。実は上杉軍は武田軍の動きを察知して真夜中に秘かに山を下りて川を渡り、万全の攻撃準備を整えていたのです。さすがの信玄も冷や汗が噴き出ます。
圧倒的多数の上杉軍は怒涛の勢いで襲いかかってきました。凄まじい波状攻撃で入れ替わり立ち代わり休むことなく攻めてきます。激戦のなか信玄の弟・信繁や山本勘助らが次々と討たれます。そして信玄の本陣に隙が生じた瞬間、名馬に跨った謙信が太刀を振りかざして切り込んできました。伝説の一騎討ちの場面です。『甲陽軍艦』によれば馬上の謙信が斬りかかると、信玄は軍配で辛うじて防ぎました。信玄は死の寸前まで追い詰められていました。
ところが武田軍は幸運にも持ち返し、夕暮れ近くになって上杉軍を退かせることに成功します。戦いは前半が謙信の勝利、後半は信玄の勝利でした。信玄は生き残ります。
実は信玄は、兜の中に一寸四分(約4センチ)の金色の毘沙門天を入れていたのです。戦場では常に毘沙門天と一緒でした。ライバル謙信も毘沙門天を篤く信仰し、春日山城内の毘沙門堂で祈りを捧げてから出陣していましたが、信玄は毘沙門天と一体だったのです。だからこそ、毘沙門天の化身といわれた謙信でさえ信玄を斬ることができなかったのです。
川中島の戦いのあと信玄は毘沙門天への信仰を深め、京の仏師・康清に命じて刀八毘沙門天像を彫らせ、陣中本尊として本陣に安置するようになりました。信玄の軍団はますます強くなります。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、のちに天下をとる徳川家康を赤子の手をひねるように負かしています。
現在刀八毘沙門天は山梨県の有形文化財に指定され、甲府市の寺院でたいせつに祀られています。信玄を危機から救った4センチの金色の毘沙門天は江戸時代に川越藩主・柳沢吉保の手に渡り、毘沙門社を建立して祀られました。篤い信仰を集めています。
毘沙門天の力で収入3倍増!
戦国武将・黒田長政は30歳を超えても偉大な父・黒田官兵衛の影に悩んでいました。十代はじめの初陣以来数々の武功をあげてきましたが、天下一の軍師といわれた父・官兵衛の存在は山のように巨大でした。長政は朝鮮出兵でも活躍しましたが、戦いのさなか主君・豊臣秀吉を失います。実力者の石田三成とは激しく対立します。当時の所領は豊前中津18万石。いつ歴史の藻屑と消えてもおかしくない武将の一人でした。
そんなとき長政が出会ったのが毘沙門天です。京都・鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏だった約7センチの毘沙門天が、戦乱で焼かれてはいけないと室町将軍の茶家である比喜多養清宅に疎開していました。比喜多家は黒田家と縁があり、やがて長政の手に渡ります。
長政に大きなチャンスが訪れたのはその後です。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いに東軍として出陣することになりました。長政は兜の中に毘沙門天を入れて関ケ原に向かい、開戦と同時に石田三成の本陣めがけて突撃して激戦を繰り広げ、家老の島左近を討ち取る大手柄を立てます。さらに小早川秀秋の寝返りを実現するうえでも決定的役割を果たしました。
戦いのあと、徳川家康は長政の手をとって最大の功労者であると称えました。そして外様大名でありながら、戦いの前の約3倍の52万3千石の大封を与えられました。長政はついに父を超えました。
その後長政は福岡藩藩主として領地を大いに発展させます。毘沙門天は黒田家で代々たいせつに受け継がれ、現在は京都の名刹で祀られています
父親のような毘沙門天
毘沙門天は心を寄せる人を暖かく見守り、危害を加えようとする者には厳しい罰を下す父性的な神です。古代インドで財宝をもたらす神クベーラとして信仰されたあと、敵を撃滅する力が知られるようになり中央アジアや東アジアで鎮護国家の武神として祀られるようになりました。仏教では四天王の一尊として北方を守っており、四天王中最強です。
用明天皇2年(587年)、聖徳太子は物部守屋との戦いで苦戦していました。そのとき勝利を祈ると毘沙門天が出現して戦勝の秘法を授けたといいます。ちょうど寅年、寅の日、寅の刻でした。勝利のあと聖徳太子は信貴山に堂宇を建立して自刻の毘沙門天を祀りました。これが信貴山朝護孫子寺のはじまりです。
現代の一流企業でも毘沙門天を祀り大成功しているところがあります。信貴山真言宗管長の田中眞瑞猊下によれば、ある東証一部上場メーカーの三代目会長が毘沙門天を篤く信仰していて、十一階建ての立派な本社ビルの会長室はもちろんのこと各階にも毘沙門天が祀られています。会社は毎年何百億円も利益をあげています。また別の大手食品会社社長も毘沙門天に熱心に祈っていて、新製品が大ヒットしたのは毘沙門天のお陰と感謝していたとのことです。時代は移り変わっても、毘沙門天と縁を結んだ人が大いなる力を授かる事実に変わりはありません。
経典が説く毘沙門天の力
毘沙門天の功徳としては一般に勝負に勝たせてくれることと、富を与えてくれることが有名ですが、『毘沙門天王功徳経』は次の十種の福を説いています。
一、無尽の福 二、衆人愛嬌の福 三、智慧の福 四、長命の福 五、眷属集多の福 六、勝軍の福 七、田畠能成の福 八、蚕養如意の福 九、善識の福 十、仏果大菩提の福
一は尽きることのない幸福を得られる、二は皆から愛される、三は知恵を得る、四は長生きさせてくれる、五は周囲の人に恵まれる、六は勝負に勝つ、七は田畑が豊作になる、八は産業が思いのまま栄える、九は善き教えに出会う、十は悟りを得られるといった意味です。
経典は毘沙門天の真言を唱える功徳も説いています。毘沙門天と縁を結び、毘沙門天の真言を唱えるだけで、人生は全く違ったものになるでしょう。
金色に輝くあなた様の守護神
弊社では縁あるお客様に毘沙門天の「力」をお届けするべく、原型師として名高い津田潔志師に依頼して、信玄を守った守護神とほぼ同じ大きさの毘沙門天を制作しました。
令和第一号の素晴らしい作品が完成しました。小さな空間に毘沙門天の激しさや威厳が見事なまでに表現されています。極小の毘沙門天としては古今東西の最高傑作の一つといえましょう。完成度の高い極小毘沙門天は入手困難で、たいへん希少な作品です。
史実が示すとおり、毘沙門天は心を寄せる人を力強く守り、大いなる勝利をもたらします。天台宗寺院で毘沙門天と不動明王が両脇侍として安置されるケースが多いことから、不動明王を祀っている方は特に力を実感しやすいと思います。
ぜひこの機会に、純銀製24金鍍金の「勝運毘沙門天」をあなた様の守護神としてお迎えください。
作者:津田潔志
材質:純銀(SV925)製24金鍍金
総高:37mm(槍先まで54mm)
重さ:21g
別売の黒檀厨子に安置した姿
お問い合わせ・お申込は、お気軽に03−3320−7722までお電話ください
毘沙門天