実話が証明する不動明王の力とは?
驚くべき霊験譚は下に。後醍醐天皇、武田信玄が心の拠りどころに
希少
高野山伝燈大阿闍梨
菅澤照真師が開眼入魂!
細密工芸の粋!
制作は細密工芸の泰斗・紀藤英智仏師
純銀(SV925)製 24金鍍金
高さ:35mm 像高:23mm 重量:約25g
「この大明王は、大威力あり」 聖不動経 「是大明王有大威力」 |
悪運断ち切り、仕事の成功(金運上昇)に強い威力を発揮!
あなたを力強く守る!
お陰様で大好評!
家庭に平和が戻りました! (お客様から) 中古で念願のマイホームを買ったのですが、夜中に物音がしたり声が聞こえたりする怪奇現象が続いて、ノイローゼになりそうになりました。買い替えるわけにもいかず、本当に参っていました。 偶然雑誌で一寸不動明王を知り、藁にもすがるで思いで注文しました。そうしたところ、届いたその日から怪奇現象がピタッとやみました。 ホッとしました。本当に感謝しています。 |
岡野清豪元通産大臣が驚異の証言
「不動明王の力で現金発見! 奇跡の命拾い!」
通産大臣や文部大臣を歴任した岡野清豪氏は、自宅で不動明王を祀るとともに、開眼入魂した不動明王の御守を常に身につけて、たいへんな業績をあげました。
岡野氏は大手銀行副頭取だったとき発表した随想集『金・物・心』のなかで、多額の現金を不動明王の導きで発見した体験談を語っています。さらに、列車火災に遭遇したとき不動明王の御告げで奇跡的に生き残った自身の実話を紹介しました。政府中枢にいた人物による生々しい貴重な証言ですので、現代仮名遣いに直してそのまま引用します。岡野氏は、「不動尊の啓示を受けた」とハッキリ述べています。
「昭和十二年の暮れ、友の死にあいその葬儀に参列するため、十二月十六日の夜行で上京することとした。私は常時連日の多忙に幾分疲労気味もあったので、乗車後直ちに寝台に入り、いつか深い眠りに落ちていた。突如、異様な叫び声に暁の夢を破られて我に返ると、同車の人々が逃げ惑うただならぬ気配が感ぜられる。さては椿事と直感して飛び起きた時には、はや咽ぶような臭気と共に濛々たる黒煙と紅蓮の炎が扉の外側をなめていた。『大変な火事だな』と思った刹那、『逃げよ』という不動尊の御告げが閃いた。躊躇なくコンパートメントの扉を開けた途端、パッと火炎を真向に受けて反射的に扉を閉じてしまった。しかし考えてみると、逃げる途は二つよりない。窓ガラスを破って出るか、火炎渦巻く廊下へ今握っている扉を排して出るかである。窓から出るには厚いガラスを破らねばならぬ。破ったところで、肥大した自分の身体が無事脱出し得るか否かは疑問である。一方、扉の外の廊下は一面火の海である。進退きわまるという絶望感がヒシヒシと胸を締めつけた。一瞬私の頭に閃いたのは死の予感である。過去、現在、未来にわたる一切の想念が走馬灯のように去来した。銀行のこと、子供のこと、母のこと、自分を必要とし自分を失うことにより痛手を受けるだろうところの後輩のこと、その他いろいろなことが、不思議なほど澄み切った頭の中を次から次への電気のごとき速さで映し出された。(中略)
もちろん、かかる想念は一瞬に去来したものであった。真正面から火炎を受けて反射的に閉じた扉の把手をシカと握ったままの次の瞬間、再び私は不動尊の啓示を受けた。それは『火炎をついて出よ、火元の方向を見定めてその反対に走れ』ということである。私は決然扉を排して躍り出た。そのとき肌身離さぬ御守を洋服に入れたまま残してきたことに気づき、引き返そうとしたが、『棄ておけ、棄ておけ』との御言葉が天から降るように感じ、そのまま荒れ狂う煙と炎の中を走った。火炎は鬢髪を焦がし、ガラスの破片は足の裏を傷つけたが、災害悪毒を除去し身代わりに立たせ給う不動尊の御冥助により辛くも車外に私は脱出し得たのである。そして、着のみ着のままで上京し、所要の服装は友人から借着して間に合わせ、滞りなく友の葬儀に参列することが出来た。
夕刻鉄道省から社内の遺留品が届けられたのを見ると、外套は無残にも半焼け、ズボンも下半部は焼け、上衣は形がなくなるほど焼けてしまっていた。鞄も形だけは残っているが黒焦げとなり、帽子、靴などに至っては全然跡形もなかったということである。しかるに、ここに驚くべきことは、御守を奉蔵してあったチョッキのみはいささかの損傷もなく、時計、鎖、印章はもちろん、内側のポケットに入れていた財布、小切手帳などソックリそのまま助かって我が手に返ったことである。
思えば再三の危難に全きを得たのみか、この遭難のごとき一瞬を誤れば大事に至ったこと明らかであるにも関わらず、限りなき御慈悲の御手にすがって九死に一生を得たのである。所持品ことごとく火災にかかった中に、御守と、御守を奉蔵したチョッキのみが何の損傷もなく無難であった。仰げば明王の御霊徳誠に赫赫たるものがあるではないか」 (岡野清豪(1941).『金・物・心』.全國書房)
本当の霊験は日本経済復興だった
岡野氏は、不動明王の導きで命拾いしたことで、「再生の喜びに浸り、私はいよいよ信仰を固くし、ますます粉骨砕身もって世のため人のため奉仕することを誓った次第である」と述べています。しかし、これを書いた昭和16年時点で分かっていなかったのは、不動明王の本当の力はこれから発揮されることです。
岡野氏は大手銀行の頭取に昇りつめたあと、政界に転じます。すぐに実力を買われて吉田内閣で入閣し、日本が一番苦しかった戦後混乱期に地方自治庁長官、行政管理庁長官、文部大臣、経済審議庁長官、通産大臣として大活躍します。
通産大臣時代に岡野氏は、輸出振興、国内自給度の向上、国民生活の安定、中小企業の安定を掲げました。当時はみんな貧しく、「国民生活の安定」は夢物語にしか聞こえません。それでも、不動明王の御守を懐に入れ、不動明王の力を信じ、不動明王に祈りながら、次々と施策を実施していったのです。
結果、どうだったか? 日本経済は奇跡の復興を遂げます。特に、岡野氏が第一にあげた輸出振興は、後年日本製大衆車が世界市場を席捲する勢いとなりました。不動明王の導きのもと、国家の中枢で下した決断の一つ一つが、実を結んだのです。
岡野氏は昭和40年、国家に対する積年の功労によって勲一等瑞宝章を受章しました。不動明王とともに歩み、個人としても大成功した人生でした。
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優しい語り口で密教の真髄を伝える |
人々を救う激烈の法力
一寸不動明王を開眼入魂した菅澤照真師は、真言密教最奥の伝燈大阿闍梨(でんどうだいあじゃり)の位を持つ、潮音寺の住職です。
高野山の伝燈大阿闍梨は学問研鑽行事である勧学会に何年も出仕して修学し、阿闍梨位についてから15年から20年を経て、約10年に1度しか行われない学修灌頂に入壇した僧侶のみが昇進できる位。学修灌頂は完全な秘儀ですが、高野山御影堂で弘法大師空海御影に直接接し、直弟子になるものといわれます。
護摩法を修する菅澤師 |
そんな菅澤師ですが、助けを求める市井の人々の相談にのり、法力で大勢を救ってきました。師の加持祈祷は、受け手の方々を目の前にしている場合だけでなく、顔も見たこともない遠方の場合でも効果をあげています。雑誌「パワースペース」の特集で、「ガンを治す驚異の密教僧」として紹介されたこともあります。
また気さくで暖かい人柄を多くの人に慕われ、求めに応じて全国を飛び回っています。
菅澤師はまだ高校生だった頃、人生の転機となる神秘体験をしています。導かれるように川に入ったとき、目の前に太陽のようなものがあらわれ強烈な光に照らされたのです。その太陽はどこを向いても正面に見え、非常に心地良かったといいます。まだ正式に行に入る前でしたが、以後友人知人のため祈ってあげると、面白いように願いが叶うようになりました。
高野山金剛峯寺(画像:663ハイランド) |
滝行を指導する |
3回生のとき、究極といえる体験をします。当時菅澤師は、なにかに呼ばれている気がして高野山奥の院(空海入定の地)に1日5回も通っていましたが、あるとき自分の中で過去・現在・未来が同時に整列し、不生不滅の意識そのものとなり、自他の区別のない慈悲の意志だけがある世界を体験したのです。この体験以後、菅澤師の法力はいよいよ強烈なものとなり、病者加持の祈祷を学ぶと凄まじい効果を発揮しました。新米だった菅澤師のもとに、当時の高僧等から病気平癒祈祷の依頼がきたほどです。
高野山大学を卒業したあとも、菅澤師は台密(天台密教)、チベット密教、神道、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教を学びました。第二回シカゴ世界宗教者会議に参加したときは、ダライ・ラマ法皇に接見しています。
潮音寺本堂にて |
丁寧に開眼入魂
弊社では菅澤師に依頼し、一寸不動明王を開眼入魂していただきました。開眼とは心の眼を開き、魂を込めること。「性根」が入ることで、美術品でなく、持つ人を本当に守る守護仏になるのです。開眼法要はじっくり時間をかけ、丁寧に行ってくださいました。縁あって一寸不動明王を授かる方が悪事災難から逃れ、大いなる幸せをつかんでほしいという菅澤師の願いが込められています。
開眼入魂を前に、檀上に並んだ一寸不動明王 |
真言密教は富裕になることも、立身出世も、良き異性に巡りあうこともすべて肯定すると菅澤師はいいます。この身このままで悟りを開くと共に、繁栄、健康、成功、名声等の全てにおいて、自分自身の人生を完成させるものだといいます。過去でも未来でもなく、現在が大切なのであり、それで無ければ私達の人生とは何なのでしょうと説きます。
伝燈大阿闍梨が直々に開眼された一寸不動明王は、現在を懸命に生きる人々を大いに助けます。
強烈なる開運力!
不動明王を守護仏とした武田信玄 |
一寸不動明王は、あなた様の仕事の成功(金運上昇)、災厄除去、トラブル解決に強い力を発揮します。激しい気迫で一切の魔を退散させ、邪悪なものを断ち切り、すべてに打ち勝つ力をもたらします。悪事災難を取り除き、心を寄せる人を力強く守る、守護者のような存在です。後醍醐天皇、安倍晴明、二宮尊徳、初代市川團十郎など多くの歴史的人物が不動明王に心を寄せ、大いなる御利益を授かりました。
信玄生不動が安置される明王殿 |
戦国時代最強といわれた武田信玄もまた、自らの頭髪を焼いて塗りこめた不動明王像を作らせ、出陣前ひとり加護を祈りました。なにが起こるか分からない戦国の世、リーダーの孤独をかみしめながら、不動明王にだけは心を許すことができたのかも知れません。
この「信玄生不動」「武田不動尊」と呼ばれる不動明王は、1582年(天正10年)に恵林寺が焼けたときも、明治時代の大火のときも奇跡的に焼失を免れ、霊験あらたかとして篤い信仰を集めています。
自信は成功の源 |
信玄に限らず多くの戦国武将は神仏を尊び、一寸不動明王のような守護仏を懐に戦いの場に赴きました。恐怖や葛藤に圧倒されそうになったとき、懐の小さな仏像が己に打ち勝つ大きな役割を果たしたことは間違いありません。
一寸不動明王のような守護仏は、心の支えとなり、安心をもたらし、自信をつけ、心を奮い立たせる力を持ちます。勝運強化、災難消除の実際面ばかりでなく、心の内面にも力を発揮するからこそ、命懸けの戦いに臨む戦国武将に熱く支持されたのです。
小さなカミナリ親父
わずか数ミリの空間に |
一寸不動明王の印象を一言でいうなら、「カミナリ親父」。
昔の日本にいた、無口でおっかなく、曲がったことが大嫌いで、口より先に手が出てしまう不器用な親父。それでいて心の奥には深い愛情をたたえ、責任感が強く、どんなことがあっても家族を守る力強い親父。一寸不動明王を手にすると、そんなカミナリ親父に叱咤激励されている気がします。
お顔はルーペで見ないと分からないほど小さいですが、カッと見開いた大きな目、強い決意を秘めて閉じられた口からは、激しい気持ちが伝わってきます。真っ直ぐな姿勢、岩座にドッシリ座った磐石なお姿は、「なにがあっても負けるな!」と身をもって諭しているような気がしてきます。
掌に隠れる小さな一寸不動明王が、しばらく拝見していると巨大な存在のように感じられるのは不思議なものです。
紀藤師工房近くの桂離宮(宮内庁管理) |
京仏師の力作・最高レベルの作品
作者の紀藤英智師は京都に生まれ、桂に工房を構える仏師・造形作家です。細密な仏像を得意とし、シャープペンシルの芯に仏像を刻む驚異的な技術がテレビ番組で紹介されたりするなど、細密工芸の第一人者として知られています。
本作品は紀藤師が、じっくり時間をかけて制作した力作です。不動明王の力強さ、激しさ、威厳、そして内に秘めた深い慈悲が、この小さな空間に見事なまでに表現されています。
材質は純銀(SV925)。それを24金鍍金で美しく仕上げました。
銀の仏像は鋳造に高度な技術を要するので古来希少です。たいせつな守護仏にふさわしいのは貴金属であると考え、あえて材料にこだわった入念作です。
紀藤師が作り上げ、菅澤伝燈大闍梨が開眼入魂した一寸不動明王は、あなた様だけの心強い守護仏となります。この出会いが、人生を切り開きます。ぜひこの機会にどうそ。
まつり方は簡単!
一寸不動明王は個人的な守護仏ですので、細かい決まりにとらわれる必要はありません。たいせつなのは形でなく心です。
清浄なところ安置し、祈るだけで、あなた様を守り心願を成就してくれます。ご注文いただいた方には不動明王真言をお伝えしています。
お客様から 二体目の一寸不動明王を愛車クラウンの守護仏に(両面接着テープで固定) 無事故無違反継続中
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不動明王の霊験譚
日清戦争 |
九死に一生を得る
1894年(明治27年)の日清戦争のとき、台湾出撃の命が下った陸軍少尉・中谷道太郎氏は河内の瀧谷不動に参拝し、部下に守護札数百枚を持たせて出征しました。
現地で農村を捜索していたとき、中谷氏はいきなり首めがけて横から槍で突かれました。間一髪で避けると、敵兵が次々出てきて斬りあいになり、激戦のなか中谷氏の刀は折れ、死に物狂いの格闘の末かろうじて敵を倒して陣地に戻りました。
一息ついて帽子を脱ぐと槍で切られた跡があり、帽子に挟んであった不動明王の守護札が切れているのを発見しました。中谷氏は、不動明王が自分を救ってくれたのだと悟りました。
中谷氏が率いた部隊は、他の部隊が風土病で大勢の死者を出すなか奇跡的に一人も病気にかからず、大いに活躍し明治29年5月10日無事凱旋しました。帰国後直ちに不動明王にお礼参りに行き、折れた刀を奉納したことが記録に残されています。
史書の伝えるところによれば806年(大同元年)、弘法大師空海が唐から帰国するとき船上で嵐に遭遇し、あわや難破かというとき師の恵果和尚から授けられた霊木で不動明王を彫り上げ一心不乱に祈祷しました。
すると不動明王が船の先に立ち、右手に持った三鈷剣で押し寄せる波を切り裂いて危機を救ったといいます。このときの「波切不動明王」は現在重要文化財に指定され、高野山南院の本尊として篤い信仰を集めています。一年に一度、6月28日だけご開帳します。
高雄山神護寺 |
空海が帰国してのすぐの810年(大同5年)、薬子の変が勃発し国内は非常に不安定な状態になります。空海は嵯峨天皇の密勅を受け高雄山神護寺(当時は高雄山寺)で不動明王を彫り上げ、その前で護摩祈祷を行ったところ、乱はすぐに平定されました。
それから百数十年後、平将門の乱が起きます。朱雀天皇の密勅を受けた寛朝大僧正(916〜998)は高雄山神護寺の不動明王(上記)を奉じて東国に下向し、将門調伏の護摩祈祷を行いました。21日間懸命に祈り続けた満願の日、940年(天慶3年)2月14日、乱は無事平定されたのです。
大任を終えた寛朝大僧正が不動明王とともに帰京しようとすると、不思議なことに像は微動だに動きません。やがて「長くこの地に留まって無辺の衆生を利益せん」という霊告が響きました。この話を聞かれた朱雀天皇は深く感動され、国司に命じて現在の成田山新勝寺を建てさせました。爾来一千七十年、一日たりとも護摩供が絶えたことはありません。
鎌倉時代になってわが国は元寇という未曽有の国難に直面しました。高野山からは空海自刻の波切不動明王(上記)が持ち出され、博多で五壇護摩と呼ばれる大規模な祈祷が行われました。
そのとき、不動明王が元の軍勢目がけて空を走っていく姿が各地で目撃されたのです。そして1281年(弘安4年)7月、ついに14万の元軍が壊滅しわが国は危機を脱しました。日本側兵力はたったの4万にすぎませんでした。
不動明王は日本を救ったのです。
後醍醐天皇を守った不動明王
空海の時代から約500年後、建武の中興(1334年)を成し遂げられた後醍醐天皇。その精神はさらに500年後の明治維新に引き継がれ、わが国を植民地化の危機から救いました。
幼少より英明であられた後醍醐天皇は御自ら護摩祈祷を行うほど密教を深く学ばれ、不動明王と深い縁で結ばれていました。改革のため危険を顧みることなく、生涯何度も危機を切り抜けられた帝は不動明王を守り本尊とされていたのです。南朝の終わりころには戦火で失われてはいけないと、胸を引き裂かれる思いでこの不動明王を吉野(右写真)から高野山に移されました。
現在後醍醐天皇を守った「赤不動」は重要文化財指定を受け、高野山明王院の本尊として篤い信仰を集めています。日本三不動の一つであり、のちの時代に徳川家康も深く帰依しました。
お薦めの本: 『不動信仰事典』 宮坂宥勝(名古屋大学名誉教授・総本山智積院化主第68世)編
不動明王の功徳(聖不動経)
その時に大会に一明王あり、この大明王は大威力あり、大悲徳のゆえに青黒の形を現じ、大定徳のゆえに金剛石に座し、大智慧のゆえに大火焔を現し、大智剣を執って貧瞋癡を害し、三昧の索を持して難伏者を縛し、無相法身虚空同体なればその住処も無し、ただし衆生の心想中に住し、衆生の意想各々不同なれば衆生の意に従って利益を作し、所求を円満せしむ、その時に大会、その経を説くことを聞いて、皆大いに歓喜して、信受し奉行しまつりき
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不動明王