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文化勲章受章
北村西望作 聖観世音菩薩
しょうかんぜおんぼさつ
巨匠の名作
優しさと気品
どこにでも安置できる高さ25cmの作品。
その存在感は広大無辺。
釈尊が説いた観音菩薩の救済力
『法華経』第二十五章の「観世音菩薩普門品」(単独で『観音経』とよばれる)のなかで釈尊(釈迦牟尼・前463年〜前383年)は、観音菩薩の力を分かりやすく説いています。聖観音は、さまざまな姿に変化する観音菩薩の基本の姿です。
経典は「なぜ観音菩薩(元々はあまねく自在に観る者という意味)と呼ばれているのですか?」という問いから始まります。それに答えて釈尊は次のように「観音力」を説いています。以下主要部分の現代語訳です。
「よく聞くがよい。観音菩薩の行は、あらゆる所からの救いの求めに応じるからです」
「たとえ大火の中に入れられても、観音菩薩を念じれば(念彼観音力)焼かれることはないし、大海で漂流していても、観音菩薩を念じれば波間に沈むことはありません」
「悪人に追われ、高い山から落ちても、観音菩薩を念じれば髪の毛一本傷つけられません」
「無実の罪で逮捕されて、鎖でつながれても、観音菩薩を念じれば自由の身となります」
「恐ろしい悪霊や、もろもろの鬼神に遭遇しても、観音菩薩を念じれば危害を加えられません」
「猛獣に囲まれ、鋭利な牙や爪で殺されそうになっても、観音菩薩を念じれば走り去ってしまいます」
「人々が困難に直面し、大変な苦しみに打ちひしがれていても、観音菩薩の優れた力があまねく救ってくれます」
「観音菩薩は、真実を見通す清らかな目、偉大な智慧の目、人々の苦しみに共感し慈しむ目を持っています。観音菩薩に常に願い、常に仰ぎ見るようにしなさい」
「観音菩薩の清らかな智慧の光は、もろもろの闇を破り、災いの風火を鎮め、世の中をあまねく照らすのです」
「くれぐれも、疑いを持たないようにしなさい。観音菩薩の清らかさ貴さは、苦悩や死の災いにおいて、救済の確かな拠り所になるのです」
「観音菩薩はすべての功徳をそなえ、慈しみの眼差しで人々を見守っています。その福徳は、海のように果てしなく大きいものです。それ故に、観音菩薩を礼拝しなさい」
最初は軽視していた
古来観音菩薩の霊験談は無数ありますが、正二位、勲一等に叙せられた海軍中将・小笠原長生子爵(一八六七〜一九五八)の証言は、「観音力」が国家の命運をも左右することを示すものです。もしも観音力が無かったら、日本は明治時代に滅亡していたかも知れません。国家の存亡がかかった決定的場面で、観音力は我が国を救いました。
それでは小笠原子爵の実例を見ていきましょう。
小笠原子爵は、江戸幕府老中・小笠原長行の長男として生まれ、幼少のころ大名家の唐津小笠原家当主となっています。明治20年に海軍兵学校を卒業し、海軍将校となりました。
明治26年、休暇で実家に帰ったとき、母親から小さな厨子に入った観音像を持たされました。当時の子爵は覇気あふれる元気な青年将校で、本人の談によれば「青年の客気に駆られて信仰などを軽視していた」とのこと。それでも観音像が気に入ったので、軍艦の自室に安置しました。この出会いが運命を変えました。
翌年日清戦争が勃発し、軍艦・高千穂の分隊長として出征します。当時の清は大国で、最新鋭の軍艦を持っており、日本にとって非常に厳しい戦いです。9月17日には制海権を決する黄海海戦が起こり、子爵も命懸けで戦うことになります。
海戦の十数日前、子爵は不思議な夢を見ました。妙に明瞭な海戦の夢です。清国海軍が横陣で押してくるのを、日本海軍が縦陣でその前面を通過します。激しい砲撃戦となり、敵の砲弾が気味の悪い唸りをあげて飛んできては近くで炸裂します。すると一弾が子爵の部屋に命中します。「やられた!」と思ったときは、子爵の右腕はだらりと垂れて、大量の血が噴き出ていました。飛び起きたのはその時です。気味悪い夢で冷や汗ビッショリでした。
17日に両国艦隊による実際の海戦がはじまると、敵の陣容を見て驚きます。なんと夢で見たそれと、寸分違わなかったのです。子爵は奇異の思いとともに、超自然の力をひしひしと感じたと述懐しています。
激しい砲撃戦がはじまって十数分経った13時9分、敵弾が子爵の部屋で爆発します。正に夢で見た通りです。寝具や器具は粉砕され、かけてあった外套は13ヶ所も弾痕があき、刀の鞘は粉々になりました。ほとんど何一つ満足な物が無かったなか、机の上に安置してあった観音像の厨子だけが、奇跡的に無傷でした。そして戦いが終わって厨子を開くと、観音像の右手が折れていたのです。それを見た子爵はハッとします。観音像が身代わりになってくれたと悟ったのです。本人の文章によれば、「霊感とでもいうのでしょう、尊いような、懐かしいような、そうして涙ぐましくもあるような何ともいえぬ感激に打たれ、我知らず合掌いたしました」。この出来事がきっかけで、子爵は観音菩薩を深く信仰するようになります。
日本を救う!
明治37年になると日露戦争が勃発します。当時のロシアは、日本の10倍の陸軍力を誇るヨーロッパの大国です。新興国日本が、逆立ちしても勝てる相手ではありません。翌年バルチック艦隊が遠征してきたとき、日本は絶体絶命の窮地に追い込まれました。もし艦隊の半分でもウラジオストク港に逃げ込まれたら、制海権を失い、国が滅びます。ロシアの艦隊に完勝するという、不可能に近い課題を突き付けられたのです。
そのとき参謀・秋山真之が立案した天才的な作戦によって、日本海海戦で完勝して危機を脱したことは、よく知られている通りです。ただあまり知られていないのは、作戦立案で決定的役割を果たしたのが、小笠原子爵だという事実です。
日本海海戦の何年も前から、秋山真之は古今東西のあらゆる兵法書を研究し、戦術を練っていました。しかし行き詰まり、体を壊して入院します。子爵が見舞いに行くと、秋山は「あなたの家に海賊戦法の本はないか?」と尋ねます。子爵は実家に帰り、『能島流海賊古法』という写本を探し出して秋山に貸します。するとしばらくして秋山から、「あの本を読み開眼した」と礼を言われました。日本を救った作戦は、子爵が貸した写本から生まれたのです。
日露戦争のとき子爵は、大本営にあって明治天皇の側で戦略立案にあたりました。一つの戦略ミスで国が亡ぶ状況で、激烈な緊張の日々を送ります。子爵は振り返ります。「時折判断に迷い、苦しむことがありました。軍略をめぐらすとき、私はまず観音菩薩を拝して心静かに仏書をひもときました。そうすると不思議にもさらりと迷いも苦しみも忘れて、明らかな判断が湧き上がってきます。それは自分ながらに驚くばかりの明案が浮かぶのでした」
国民的ヒーローとなった子爵は、明治44年には学習院御用掛の要職につき、当時の皇太子殿下(昭和天皇)の養育にあたる栄に浴しました。大正15年には『観音物語』という本を出版し、観音力の偉大さを説きました。著書は「感謝!」という言葉で締めくくられています。昭和33年、92歳の天寿をまっとうするまで、観音菩薩への感謝の気持ちで一杯だったのでしょう。
危機一髪! 中学生の命を救う!
観音力は、国家レベルの仕事をする人だけのものではありません。事相の大家として知られた高野山真言宗大僧正・織田隆弘師の著書『観音開運法』には、知り合いの関根さんという人が、戦時中に命拾いした実話が紹介されています。
関根さんは当時中学生で、織田師の寺に居候していました。昭和20年5月20日の大空襲のとき、避難する関根さんの前に金色の観音菩薩が突如現れました。ハッと思って立ち止まったところ、目の前に赤い火の玉が落ちたのです。関根さんは鉄兜が少しへこんだ程度で済みました。もしも立ち止まらなかったら、確実に死んでいました。関根さんは観音菩薩に救われた証拠だとして、当時の鉄兜を大切に保管しているそうです。
ほかにも織田師の著書には、観音力で救われた大勢の人の実例が記されています。国家を背負って戦う高級軍人でも、市井の一般市民でも、等しく助けてくれるのが観音菩薩です。観音力を授かる人生と、授からない人生は、まったく違ったものとなります。
日本を代表する彫刻家
北村西望(きたむら せいぼう 1884〜1987年)は文化功労者として顕彰され、文化勲章を受章した日本彫刻界の泰斗です。
仏教を篤く信仰する長崎の名家に生まれた西望は、19歳で親に内緒で願書を出し京都市立美術工芸学校に入学します。そこで親友建畠大夢と出会い、良きライバルとして切磋琢磨し合いながら創作に熱中し、卒業制作では西望が大夢を上回って主席となりました。
卒業後大夢が東京美術学校(現・東京芸術大学)に進学すると、西望は仕送りを断たれて学費が払えないのに矢も盾もたまらず上京します。西望の窮状を知った大夢は「これで払いたまえ」と届いたばかりの仕送りを丸々渡したといいます。親友の助力もあって、またもや主席で卒業します。
西望は明治41年、25歳の若さで文部省美術展覧会(文展・現日展)に入選し、33歳の大正5年には特選で翌年早くも無鑑査となり、大正10年に東京美術学校の教授となります。
西望と大夢に朝倉文夫を加えた3人は「文展の三羽烏」と呼ばれ、昭和13年に国会議事堂に建てられた板垣退助翁像(西望)、伊藤博文像(大夢)、大隈重信像(朝倉文夫)を競作するなど近代彫刻の第一人者として活躍しました。
親友大夢は昭和17年に急逝します。西望は悲しみに暮れますが、親友への思いを創作にぶつけ数々の名作を世に出します。昭和30年には長崎市の「平和祈念像」を制作し、一般にもっとも知られた作品となりました。昭和33年に75歳で文化勲章を受章し、日展会長、日本彫刻会名誉会長などの要職を歴任しますが、老いてなお創作への情熱を燃やし続け昭和51年(93歳)には皇居新宮殿の「天馬」を完成させました。昭和62年3月、104歳の天寿を全うしました。
本聖観世音菩薩の原型は、晩年の円熟期に制作されたものです。
文化勲章受章を伝える昭和33年の読売新聞(写真右)
北村西望略年譜 明治17年(1歳) 12月16日、長崎県に生まれる(現同県南有馬町白木野)。北村家は白木野の豪農で仏教に篤く、西望は四男の末子である 明治36年(19歳) 京都市立美術工芸学校入学(彫刻科)。師の国安虎三郎、親友建畠大夢に囲まれて、創作に熱中する。日本画の同級生には川路柳虹、村上華岳などがいた 明治41年(25歳) 文部省第二回美術展覧会に「憤図」が初入選する 大正5年(33歳) 第十回文展に「晩鐘」が特選になり、翌年には早くも無監査となる 大正8年(36歳) 第一回帝展の審査員となる 大正10年(38歳) 東京美術学校教授となる。朝倉文夫も同じく教授になる 大正14年(42歳) 帝国美術会員になる。「母子像」「喜ぶ少女」等の傑作を世に出す 昭和13年(55歳) 「板垣退助翁」を国会議事堂内に設置 昭和22年(64歳) 日本芸術院会員となる 昭和30年(72歳) 長崎市「平和祈念像」完成 昭和33年(75歳) 文化功労者に顕彰され、文化勲章受章。日展が創立されると共に常務理事となり、以後日展を中心に旺盛な創作活動を示す 昭和44年(86歳) 社団法人日展会長となる 昭和45年(87歳) 社団法人日本彫刻会名誉会長 昭和47年(89歳) 長崎県島原城内に「西望記念館」完成。多くの作品を寄贈する 昭和49年(91歳) 日展名誉会長 昭和50年(92歳) 故郷の長崎県有馬町に「西望公園」完成 昭和51年(93歳) 新宮殿に「天馬」奉納 昭和52年(94歳) 広島平和公園「飛躍」設置 昭和53年(95歳) 信貴山「聖徳太子像」設置 昭和55年(97歳) 東京都「名誉都民」となる 昭和56年(98歳) 御岳山「畠山重忠像」設置 昭和58年(100歳) 日展「天女の舞」出品 昭和62年(104歳) 3月、天寿をまっとうされる |
高さ:25cm 材質:ブロンズ
桐箱(題名は自筆木版、落款入) 木製台座付
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