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ご存じでしたか? 史上空前の人生大逆転劇

  

新発売! 高野山伝燈大阿闍梨 菅澤照真師開眼入魂「千手観音懐中守護尊」


弘法大師空海

図像は弘法大師空海監修・国宝「高雄曼荼羅」の千手観音




日本史に残る大逆転といえば、わずか数人で逃げ回っていた源頼朝が、たったの二か月後、20万の軍勢を率いて平氏を打ち破った治承4年(1180年)の奇跡が筆頭にあげられるでしょう。世界史を見渡しても、これほどの大逆転はまずありません。頼朝個人にとっても、死ぬのを待つだけの無期流刑の受刑者から、一躍歴史の表舞台に躍り出た人生大逆転劇でした。

現代で例えるなら、仮釈放中の無期懲役囚がトラブルを起こし、全国指名手配になったものの、わずか二か月後には関東地方を事実上支配し、やがて総理大臣に任命されるようなものです。あまりにも極端すぎて、マンガにもならないほどの驚異的な出来事が、八百数十年前に実際に起きました。その奇跡によって新しい時代が開け、今の日本があります。

なぜそんな奇跡がおきたのか? どんな秘密があったのか? 鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」は、数度にわたって答えを示唆しています。それは、頼朝の守り本尊の観音菩薩です。わずか数センチの観音菩薩が、歴史を変えたのです。


乳母の愛

頼朝の守り本尊について「吾妻鏡」は、まだ京都で幸せな生活を送っていた3歳のとき、「乳母が清水寺に参籠し、27日間に亘って真心を込めて将来を祈ったところ、霊夢とともに二寸の銀製の聖観音像を授かった」と記しています。頼朝の生涯は、乳母の愛がこもったこの観音菩薩とともにありました。

観音菩薩が最初に奇跡を起こしたのは、頼朝14歳のときです。その年、頼朝の父・義朝は平治の乱で敗れ、落ち延びる途中で殺されました。長兄・義平も捕えられ殺され、次兄・朝長は落ち武者狩りで重傷を負って死にました。一行から離れた頼朝も捕えられ、京・六波羅に送られました。当時の常識では、確実に処刑されます。死が目前まで迫りました。

そのとき奇跡が起きました。平清盛の継母・池禅尼が、頼朝が亡くなった自分の子に似ているといって突如騒ぎ出し、猛烈な助命運動をはじめたのです。一説には頼朝を救うため、断食までしたといいます。権勢並ぶものがない平清盛も、継母の必死の懇願には参りました。特別に処刑を中止させ、伊豆に流刑としたのです。


絶望の中から這い上がる

頼朝が流されたのは、狩野川の中州に建つ粗末な小屋でした。源氏の御曹司として育った少年にとって、あまりにも過酷な試練です。頼朝は観音菩薩を心の支えに、辛うじて生き延びます。「吾妻鏡」は、頼朝が観音菩薩の縁日である毎月18日に、捕えた生き物を野に放つ放生を行って供養したと記しています。そうして絶望のなか20年が過ぎていきました。

治承4年(1180年)、34歳になった頼朝に、再び絶体絶命の危機が訪れます。後白河上皇の皇子から平氏打倒の令旨が届いたあと、逆に平氏が「諸国の源氏を皆殺しにしろ」という命令を出し、挙兵せざるを得なくなったのです。さっそく頼朝は参加を呼びかける書状を各地に送りましたが、相手にされません。「あなたが平氏を討とうなんぞ、富士山と背比べし、ネズミが猫をとるようなものだ」と嘲笑した豪族もいました。客観的に見るともっともな指摘でした。例えば今の時代でいえば、34歳の仮釈放中の受刑者から「一緒に日本でクーデターを起こそう」と誘う手紙を受け取って、立ち上がる人はどれだけいるでしょうか?

自鑑水

それでも頼朝はわずかな手勢を引き連れ挙兵し、8月17日の夜、平家の目代・山木兼隆の襲撃に成功します。しかし三百騎で臨んだ次の石橋山の合戦で、頼朝の軍勢は10倍以上の敵に完膚なきまでに叩きのめされ、散り散りになってしまいました。そして三千騎の敵に追われることになります。

敵は必死で捜索します。頼朝は受刑者とはいえ源氏の御曹司。その首をとったら大手柄なので懸命です。頼朝は必死で逃げます。わずかに残った供の者と、追っ手から逃れるため山中を何日間も彷徨しました。神奈川県湯河原町の山中にある水溜り・自鑑水にたどり着いたとき、水面に映った自分の情けない姿に絶望して発作的に自害しようとしたのを、部下が必死に押しとどめて事なきを得ました。頼朝は歴史の藻屑と消える寸前まで追い詰められていました。
妻の政子は後年、「あなたが石橋山の合戦に出陣したとき、ひとり伊豆山神社に残りました。あなたの生死も分からず、日夜魂が消え入るような思いでした」と述懐しています。

頼朝は、守り本尊の観音菩薩を髷の中に入れていましたが、敵に捕まって首を切られるとき誹謗中傷を受けてはならないと、洞窟に隠しました。死を覚悟しました。


奇跡は起きた!

そのとき観音菩薩は、再び奇跡を起こします。追っ手の梶原景時が洞窟で頼朝を発見すると、不可解なことに「ここには誰もいない」とウソをついて頼朝を逃したのです。景時は計算高い策士として知られる人物。なぜ危険を冒してまで絶望的状況の頼朝の命を救ったのか、いまだに謎です。そして頼朝は、アリの這い出るスキもない包囲網から不思議と逃げ出ることに成功し、小舟で安房国(現千葉県)に落ちのびます。そこから大逆転がはじまります。

8月29日にわずかな人数で上陸した頼朝は、各地の豪族に巧みに加勢を呼びかけます。一人、また一人と加勢する豪族が増え、軍勢は雪だるま式に膨れ上がっていきます。十数騎だったのが数十騎となり、数百騎となり、数千騎となり、やがて万を越え、10月6日に鎌倉に入る頃には3万騎以上になっていました。そして10月16日に平氏追討軍を迎え撃つべく鎌倉を出発したとき、20万騎がつき従っていたのです。

静岡県の富士川(画像)で平氏の軍勢と対峙したとき、兵力の差は歴然としていました。つい2ヶ月前まで受刑者で、コテンパンに負かされて命からがら逃げ回っていた頼朝は、いま20万の軍勢を率いて、東国武士のリーダーになっていました。
震え上がった平氏の軍勢は、水鳥の羽音に驚いてあわてて逃げ去りました。その瞬間、歴史の流れが変わりました。

戦いのあと頼朝は、洞窟に隠した観音菩薩を捜索させます。12月25日、発見された観音菩薩が丁重に届けられたとき、人を介さず自ら直接受け取ったと記録にあります。頼朝は万感の思いで、小さな観音菩薩を迎えました。

「吾妻鏡」は、9年後の文治5年(1189年)、奥州藤原氏との決戦のときにも、頼朝の観音菩薩が不思議な現象を起こしたと記しています。そして同年11月18日、頼朝は乳母が観音菩薩を授かった京都・清水寺に参詣します。幾多の奇跡を経て、天下人になっていました。


伝燈大阿闍梨 菅澤照真師
潮音寺本堂にて

伝燈大阿闍梨が開眼入魂

弊社では、縁あるお客様に観音菩薩の力を大いにご活用いただきたく、高野山伝燈大阿闍梨・菅澤照真師に開眼入魂をお願いした「千手観音懐中守護尊」をご用意いたしました。頼朝の観音菩薩と同様、一体一体開眼された本格的なものです。付属のポーチに納めて、頼朝のように常に身につけることができます。

描かれた千手観音の図像は、弘法大師空海が自ら監修した現存唯一のマンダラである国宝「高雄曼荼羅」のもの。平安時代に正確に写され、たいせつに伝えられてきました。空海の指示通りに描かれたもっとも確かな千手観音像となります。

開眼法要はじっくり時間をかけ、丁寧に行っていただきました。縁あって不動明王を授かる方が悪事災難から逃れ、大いなる幸せをつかんでほしいという菅澤師の願いが込められています。

真言密教は富裕になることも、立身出世も、良き異性に巡りあうこともすべて肯定すると菅澤師はいいます。この身このままで悟りを開くと共に、繁栄、健康、成功、名声等の全てにおいて、自分自身の人生を完成させるものだといいます。過去でも未来でもなく、現在が大切なのであり、それで無ければ私達の人生とは何なのでしょうと説きます。

ぜひこの機会にお迎えください。


弘法大師空海





商品名:高野山伝燈大阿闍梨 菅澤照真師開眼入魂「千手観音懐中守護尊」
商品コード:SSK-331
29,800円(税込)

原画:国宝・高雄曼荼羅 原画監修:弘法大師空海
直径:50mm 重量:44g
材質:真鍮 携帯用ポーチ付



お問い合わせはお気軽に 03-3320-7722 までお電話ください




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